深沼の始まり&竹田家の始祖

原文

武田作右衛門家由来
始祖治信(通称内蔵助)ハ出生地ハ山城国紀伊郡竹田村ナリ
康平五年源頼義公ノ東征ニ従軍陸奥ニ下リ貞任ノ乱
平定ノ後当国ニ留リ霊夢ノ啓示ニヨリ此ノ地(深沼ノ辺)ニ住居
ヲ構ヘ同志ト共ニ荒地ヲ開拓シ一村ヲ成ス深沼ノ地名ハ此ノ沼
ヨリ称シ家郷ノ地竹田村ノ竹田ヲ以テ姓ト為ス地名発祥(深
沼)屋敷内ニ遺ル古沼即チ往古ノ痕跡ナリト傳ヘラル寛永十五
年及ビ元禄四年上杉藩ノ検地ニハ深沼館ヲ認メ地押シ年貢
除地免税トナル 元禄検地ニ当タリ元禄四年四月十一日奉行宛
差出シタル寛永検地ト同様除地ニ取扱ハレタル様トノ願書控及ビ
除地ヲ記載シタル元禄検地水帳現存ス 寛永水帳ニハ内蔵助ト
アリ通称作右衛門ヲ代々称スルハ元禄以降ナルベシ 又此ノ沼ニ傳
説アリ之ヲ書中ニ記入ス深沼碑ヲ文化十二年深沼畔ニ建立シアリ
家業トシテ酒屋ヲ営ミ深沼堂ト称シ明治年間酒造業及ビ蚕種
業ヲ営ミ深沼堂ノ名称ヲ商標トセリ 姓ハ始祖治信以来
竹田ヲ名乗リ明治維新ニ至リ四年四月戸籍法制定五年二
月施行ノ公布アリ時恰モ深沼村最後ノ名主ニ在職シタル十代
是載ハ之ヲ契機ニ姓ヲ武田ト改メ分家三戸昔通リ
故ニ本家分家・同族ハ武田・竹田ノ二姓トナル 全二五戸(分家ヲ
記入)

武田作右衛門家 由来書(現代語訳)

【第一章】京都・竹田村から東北・深沼への定住
私たちの一族の始祖である治信(通称:内蔵助)は、現在の京都府(山城国 紀伊郡 竹田村)の出身です。
平安時代の康平5年(1062年)、源頼義公が東北地方を平定した戦い「前九年の役(安倍貞任の乱)」に軍人として従軍し、陸奥国(東北地方)へ下りました。

戦乱が収まった後も始祖はこの国に留まりました。そして夢のお告げに従って「深沼」の辺りに住まいを構え、同志たちと共に荒れ地を開拓して一つの村を作り上げたのです。
「深沼」という地名は、そこにあった沼に由来します。一方で一族の名字は、故郷である京都の「竹田村」の名をとって『竹田』と名乗ることにしました。一族の屋敷の敷地内に残っている古い沼跡こそが、「深沼」という地名が生まれた大昔の痕跡だと言い伝えられています。

【第二章】江戸時代の上杉藩と特権の記録
江戸時代に入ると、寛永15年(1638年)および元禄4年(1691年)に行われた上杉藩(米沢藩)の土地調査(検地)において、私たちの屋敷は由緒ある『深沼館(ふかぬまやかた)』として認められ、年貢(税金)を免除される特権的な土地となりました。

元禄の土地調査の際、元禄4年4月11日に当時の奉行宛てに「寛永の時と同じように、税を免除してほしい」と差し出したお願い書の控えや、免税地であることが記された元禄時代の土地台帳が、現在も当家に現存しています。
その古い寛永の台帳には当主の名が「内蔵助」と記されており、代々の当主が「作右衛門」を名乗るようになったのは元禄時代以降のことと思われます。
また、この深沼には古くからの伝説があり、文化12年(1815年)には沼のほとりに「深沼碑」という石碑が建てられました。

【第三章】家業の発展
当家は代々『深沼堂』という屋号で酒屋を営んでいました。明治時代には酒造りだけでなく、養蚕業(蚕の卵を生産するビジネス)も幅広く手掛け、「深沼堂」を当家のブランド名(商標)として商売を行いました。

【第四章】なぜ『武田』と『竹田』に分かれたのか
名字については、始祖である治信から代々ずっと「竹田」を名乗ってきました。
しかし明治時代になり、明治4年4月に新たな戸籍法が制定され、翌5年2月に施行されました(国民全員が戸籍を登録する制度の始まり)。
ちょうどその頃、深沼村の最後の名主(村長)を務めていた当家の第10代当主・是載(これのり)は、この新戸籍の登録をきっかけとして、自らの名字を「竹田」から『武田』へと改めたのです。

しかし、3軒あった分家は「昔の通り(竹田のまま)」で登録をしました。
そのため、同じご先祖様を持つ本家・分家・同族でありながら、一族の中に『武田』と『竹田』という2つの名字が存在することになったのです。
(一族は全部で25戸。別途、分家について記録する)

武田作右衛門家 系譜・分家一覧

熊坂について

熊坂館 381-008

所在地 高畠町大字深沼字熊野
築城者 (熊坂宇衛門)
築城時期 戦国期
参考文献 『高畠町史』『高畠町伝説集』

概要
 屋代川南側の平地に位置し、伊達氏の家臣熊坂宇衛門の居館と伝えている。館跡は高畑城西方の備えのようでもあるが、さしたる戦略的な構築は見られない。周囲は一帯の水田で、館跡とされる所には幅1~2間の水堀が二重(東と南は三重)に周っている。館跡は内堀に囲まれた曲輪Ⅰが東西66m、南北24m、ほぼ長方形で、広さは1,600㎡(約480坪)程、大手は東Aとみられるがさしたる起伏はない。現本田長一氏宅Bが居館跡と伝え、その南に堀跡Cと堀の痕跡Dが残っている。
 屋敷周りの外堀は、東西130m、南北100m、北西と北東に少し張り出しているので、総面積は約15,000㎡(1町5反)一部(細二重線)はU字溝が入れられているが以前はすべて(館)堀であった。南西の内堀外側の墓地に古五輪塔2基Eと近世の万年塔がある。その西の水落Fは戦後かなり深い淀になっていたという。外堀の内北西50mの間Gは昭和63年に埋めたが幅は広い所で3間程あった。その他、丑寅の角に屋敷神Hと地蔵堂J、西堀端に板碑Kがある。現在堀にはすべて水が流れており、明治21年字切図と一致する。熊坂氏は伊達氏岩出山移住に随伴し伊達郡高子を領したという。
(山崎 正 青木敏雄)

熊坂宇衛門(くまさかうえもん、生年1500年代)
戦国時代の武士。伊達晴宗(独眼竜政宗の祖父)の家臣

概要
戦国時代に山形県東置賜郡高畠町熊野に伊達氏四十八館の一つである「熊坂館」を設立。以後宇衛門の居城になる[2]。

館跡は東西130m、南北100m、面積1500㎡(480坪)。また屋敷回りの外堀は東西130m、南北の100m 、15000㎡(4800坪)を誇る。

※伊達晴宗は桑折西山城 1548年頃廃城その後米沢城に居城を変更。熊坂館はそのころ設立されたのではないか?

伊達晴宗 → 1519年西山城で生まれる、1578年米沢城で没?
伊達照宗 → 1544年西山城で生まれる、1585年米沢付近で没?
伊達政宗 → 1567年米沢城で生まれる、1636年仙台城で没

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