【博愛】…忘れかけてる日本文化
博愛を理解する前に個々の字の分解して意味を考えてみます。
まず「博」の訓読みは?
博のあとに子をつけるとすぐわかります。
博子は「ひろこ」と呼びます。
博を訓読みすると「ひろい」です。
よって博は「ひろくあまねく」といった感じの意味となります。
次に「愛」の方を解析します。
愛の訓読みは「いとおしい」で、日本書紀では「おもう」と呼びました。
つまり愛(アイ)には愛おしく想うという意味があります。
博と愛の訓読みの意味から博愛は、「遍く広く多くの人を愛おしく想う」事となります。
ところで、私的な話になりますが、生まれてこの方、お付き合いしている人や妻に対し、「愛してる」と言った事がありません。
その理由は「愛(アイ)」というフレーズが、気持ちの表現としてしっくりこなかったからです。
しっくりこないので表現をして、嘘をつきたくなかったからです。
最近、愛の真意を知る事で、しっくりこなかった理由が自分なりに理解できました。
「愛(アイ)」というのは音読みで、中国から来た言葉。
つまり本来の日本語の表現としては、無かったからしっくりこなかったのだと思います。
相手を想う気持ちとして、愛おしいの方が私にはしっくりきます。
話を戻します。
修身の教科書の一節を引用します。
第二十博愛(はくあい)
明治六年、はるばる支那(中国)へやってきたドイツの商船 ロベルトソン号は、ある日、海上で大嵐にあいました。
船は帆柱を吹き折られボートを押し流され荒れ狂う大波に三日三晩ゆられて、九州の南の宮古島の沖に吹き流されて来ま した。
しかし運悪く、暗礁に乗り上げてしまいました。
船員たちは、波にさらわれまいと、こわれた船に一生懸命に取り付いて助けを求めました。
ロベルトソン号の難船を 見つけた宮古島の見張りの 者は、さっそく役人に知ら せて、人々を呼び集めまし た。
役人は、よりぬきの漕ぎ手 や医者を連れて駆けつけ、 村々の人たちと一緒に助け舟を出しました。
しかしさかまく荒波を乗り越えて進むことは、どうし てもできません。
その上、やがて日はとっぷ りと暮れました。
人々は、仕方なく引き返し ましたが、陸 (おか)に かがり火をたいて、難船を した沖の人たちをはげまし ながら、夜を明かしました。
あくる日は、風もおとろえ 波もいくらか静かになりま した。 島の人々は、「今日こそは」と勇み立ち 飲水や、かゆなどを用意し て、大波の中へ乗り出しま した。
あぶない岩の間をくぐり、大波にゆり上げられゆり下げられながら、力の限り漕いで、やっとロベルトソン号にたどり着 きました。
そうして、身の危険も忘れ て、疲れ切っている船員た ちを、残らず助けて帰って きました。
危ない命を助けられた船員 たちの喜びは、どんなであ ったでしょう。
島の人々は、薬を飲ませた り、怪我の手当をしたりし て、船員たちを介抱しまししかし言葉が通じないため どこの人だかわかりません。
そこでいろいろの国の国旗 を取り出して見せて、はじ めてドイツの人であること がわかりました。
その後一ヶ月あまりの間 親切に世話をしているうち に、みんな元気になりまし た。
そこで船を貸して本国へ帰 らせました。
出発の日には 島の人々は、海岸に出て、 鐘や太鼓をたたいて見送り ました。役人たちは船に乗 って水先を案内しながら、 はるか沖合まで送って行き ました。
船員たちは、月日を重ねて 無事に本国に帰り着きまし た。
そうして、嬉しさのあまり 会う人ごとに、親切な日本人のことを話しました。 そのことが、いつかドイツ 皇帝に聞こえました。
皇帝は島の人々の親切を たいそう喜んで、軍艦を送って宮古島に記念碑を 建てさせました。
その記念碑は、いまもなおって、長くこの博愛の美談を伝えています。
命を顧みず見知らぬ人を博愛の心で助けた、とても素晴らしいストーリーです。
しかし、ロベルトソン号事件には、更にストーリーを美化する前段のエピソードがありました。
このロベルトソン号事件の2年前に、宮古島の人たち54名を乗せた船が、台湾沖で遭難漂着して全員が虐殺されるという「宮古島島民遭難事件」がありました。
たった2年前に自分たちの友人や家族が殺されるという経験をしていたにも関わらず、宮古島の人たちは見知らぬ外国の人たちを命がけで救助しました。
なぜ宮古島の人たちは助けたのでしょう?
ロベルトソン号は10名足らずの小さな船で、何か財宝等を積んでいるような船には見えません。
そんな船を助けても何も物質的な利益は得られなかったでしょう。
宮古島の人々を動かした原動力は、その当時の人々の心には博愛の心が宿っていたからに違いないと私は思います。
なぜ博愛の心をあったか?
それはそういった教育を行っていたからでしょう。
現在は個人優先の社会ですが、当時それでは生きていけませんでした。
日本は地震や台風、様々な災害が多い国です。
個人の力では解決できない問題がたくさんありました。
水害が起きて家が流されたら、生活の基盤がなくなります。
干ばつで米が採れなくなったら、食べる物がなくなります。
そういった災害にそなえるために備蓄を行う神社があったりと、災害に対応できる社会基盤が当時はありました。
更にそのようなハード的な面だけでなく、ソフト的な心の部分も助け合えるように育んでいました。
具体的には自分自身を個とみるのではなく、社会の一部とみるような教育を行っていました。
だから自分の属している社会の誰かが困っていれば、自分が困っているのと同じように動きます。
これを家族と例えるとわかりやすいと思います。
家族の誰かが困っていれば、当然助けるでしょう。
今と昔の違いは、自分の属する社会への関わりの濃薄だと思います。
今は、自分→家族→会社や学校→市町村…と範囲を広めるほど、組織への帰属感が指数関数的に薄くなっています。
しかし昔は確かに範囲を広げると帰属感は薄まっていたでしょうが、個人を個人として捉えてなく、全員で全部というか、社会全体と家族的と捉えていたため、帰属感の薄まりは少なかったと思われます。
自分が困った時に誰も助けてくれない社会、それとも誰かが手を貸してくれる社会。
私は助け合える社会を希望します。
そのためには、「博愛」の真意を知り、その心を広げていく必要があると感じます。